Home / 恋愛 / 夫の一番にはなれない / 第2話 隣の席の別れ話

Share

第2話 隣の席の別れ話

Author: 葉山心愛
last update Last Updated: 2025-09-12 14:03:01

放課後の保健室は、いつもより少しだけ長い夕焼けが残っていた。

消毒液の匂い、しまい忘れたカップの緑茶、壁の時計。

日誌を書き終えてペンを置くと、耳の奥で秒針がまだ歩いているみたいに静かになる。

「おつかれ、奈那子先生。今日も残業女神?」

国語の美千恵がドアのところで手を振っていた。

「女神というより番人だよ。鍵、返してくるね」

「そのまま帰り? 夕飯は?」

「……たぶん、あそこ」

「あそこって、『ルーチェ』?」

うなずくと、美千恵は意味ありげに笑って「甘いもの食べすぎないでね」と小声で付け足した。

甘いものじゃなくて、今日は温かいものがほしい。胸のざわつきが、まだ消えないから。

駅へ向かう並木道。風は冷たくないのに、手の甲だけが少し冷える。

〈次の休み、会えない?〉

スマホの画面に浮かぶ“望”のメッセージを何度もなぞってしまう自分が、可笑しい。

可笑しいけれど、笑えない。

角を曲がると、見慣れた看板が灯っていた。café&grill LUCE(ルーチェ)。

古いレンガの壁に、真鍮色しんちゅういろのドアノブ。柔らかなオレンジの照明。光、という名前がよく似合う店だ。

一人で夕飯を食べるとき、わたしは大抵ここに来る。背伸びしない味と、沈黙が許される音量のBGMがお気に入りだった。

「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」

若い店員さんの声に、わたしは迷いなく奥へ進む。

一番奥の窓際の席。街路樹の枝先がガラスに薄く映って、季節が少し遅れてやって来る場所が心地よい。

いつもここ。今日もここ。

コートを椅子の背に掛け、メニューを閉じる。頼むものはだいたい決まっている。

「煮込みハンバーグと、十五穀米。あと、ホットのアールグレイを」

「かしこまりました」

頬杖をつくと、指先にまだチョークの粉の気配が残っていた。

保健室にチョークはないのに、職員室で担任の先生たちに頼まれて黒板を拭いたからだ。

こういう日常のかけらが、わたしを“先生”に戻してくれる。

ポケットのスマホが、ふる、と震える。高校時代からの友人でもあり、親友の涼子りょうこだ。

〈今夜も一人外食?〉

〈うん。ルーチェ。〉

〈しぶい。写真送って〉

〈まだ来てないよ。〉

〈じゃメニュー撮って〉

〈撮るほどのメニューじゃ……って言うと怒られるやつ〉

絵文字の笑顔が並ぶ。その顔にふっと笑みがこぼれた。

〈で、例の彼は? “次の休み会おう”ってやつ〉

指が一瞬止まる。

涼子にも話していたんだ。望と会うことを――。

〈うん。会う。〉

〈ついに? ついに、なの?〉

〈わかんない。けど、母に“大事な話かも”って言っちゃった〉

〈名前はまだ言ってないの?〉

〈まだ〉

〈六年目の匿名くん、すごい〉

〈やめて〉

〈ごめん。緊張してる?〉

〈少し〉

〈ハンバーグで糖とタンパク質を入れて、寝ろ〉

〈医者か〉

〈保健の女神に言われたくはない〉

ふっと笑いがこぼれる。笑った、そのときだった。

「こちらのお席でよろしいですか?」

店員さんの柔らかな声。わたしの隣のテーブルに、カップルが案内される。

顔は見ていない。見ていないけれど、椅子の脚が床に擦れる音で、近さがわかる。

この店はテーブルの間隔が広い。けれど、一番奥のこのブロックだけは、窓を背にすると声が少し響くのだ。

聞くつもりはない。でも、言葉は、音は、壁みたいに遮れない。

「珍しいな、こんな時間に連絡してくるなんて」

男の人の声。低くて、抑えている。でも穏やかな声質だった。

「うん……急に呼び出してごめんね」

女の人の声は、よく通る。柔らかいのに、どこか決めている音がした。

店員さんが水を置いて、「ごゆっくりどうぞ」と離れていく。

BGMが一度だけ大きくなって、すぐに遠のく。

わたしのテーブルにアールグレイが届き、カップの縁から立ちのぼる蒸気に顔を寄せる。

香りで耳をふさぐみたいに、深く息を吸った。

「……えっと、どうした?」

男の人が先に切り出す。女の人は、少し間を空けてから言った。

「大事な話があって」

スプーンが、ソーサーに当たって小さな音を立てる。

大事な話。

同じ言葉が、今日一日で何度、胸の内側を往復しただろう。

「……実はね」

女の人の声が、少しだけ震えた。けれど決して壊れそうではない、覚悟の震えでもあった。

「私――」

店のドアが開いて、外の風が一瞬だけ甘い匂いと混ざる。その一呼吸のあと、彼女ははっきりと言った。

「他に……好きな人ができたの」

カップの取っ手を持つ指先が、わずかに滑った。アールグレイの表面が、波立って静まる。

テレビもBGMもない家の夜みたいな静けさが、一瞬、店内を通り過ぎていった。

聞くつもりなんて、なかった。

でも、今の言葉は、壁もカップも窓ガラスも、全部すり抜けて、まっすぐ胸に届いた。

わたしは視線を落としたまま、紅茶をひと口飲んだ。熱さが舌の上を転がって、喉の奥で消える。

心臓だけが、ゆっくり、でも確実に速くなる。

――明るい店内。

――いつもの席。

――いつもの味。

なのに、世界が少しずつ傾きはじめたような気がした。

彼女の言葉の続きは、まだ聞こえない。

わたしは、カップをそっとソーサーに戻した。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夫の一番にはなれない   第3話 彼女の裏切り

    紅茶の表面に、照明が小さく揺れていた。耳を塞ぐみたいに、そっとカップの縁へ顔を寄せる。けれど言葉は、湯気よりも軽々と、鼓膜の奥まで滑り込んでくる。「他に……好きな人ができたの」さっきの一言が、店内の空気を少しだけ冷たくした気がした。café&grill LUCEの奥、わたしの席の隣。見ない。見ないけれど、女の人の声は澄んでいて、言葉の一本一本が輪郭を保ったまま届いてくる。「そうか」男の人は短くそう言って、長く息を吐いた。机の上で指先を一度だけ鳴らすような、乾いた小音だった。責めるでも、問い詰めるでもない。静かに受け入れる音。その静けさのほうが痛い、とわたしは思う。――もし、わたしが同じ言葉を言われたら。〈次の休み、会えない?〉望のメッセージを思い出しただけで、胃の奥がきゅっと縮む。「……いつから?」男の人が問う。抑えているのに、少し掠れていた。「はっきり、自分でも認めたのは最近。……でも、最初に気づいたのは、たぶん一年前くらい」一年前。思わず、わたしの時間も逆流する。六年のうちの“去年”は、平坦だっただろうか。仕事、望、休日のスーパー、母の電話。変わり映えのない毎日を、安心と呼んでいた頃だ。「出会ったときはいい人だなって思ったくらいだったの。……でも、気づいたら目で追ってて。最初は自分に言い訳してた。誰にでも優しい人だからって。それでも、止まらなくなって」女の人の声が、少しだけ細くなる。言い訳、と彼女は言った。言い訳は、優しさの仮面にもなる。わたしだって、“等身大”って言葉の中に、いくつの不安を隠してきたんだろう。店員さんが、わたしのテーブルへ煮込みハンバーグを運んでくる。ふう、と湯気が立って、ソースの匂いが鼻先で溶けた。「ごゆっくりどうぞ」小声で礼を言い、フォークを置いたまま手を合わせる。食べなきゃ。温かいうちに。でも、喉の手前で、何かがつかえて降りていかない。「……その人は、君のこと、どう思ってる」男の人が落ち着いて尋ねる。詰問ではなく、確認だった。女の人は少し黙って、正直に答えた。「すごく大事にしてくれてる。私がいつもと様子が違うといつもすぐに気づいてくれるの。優しい言葉もかけてくれてとにかく温かい言葉をかけてくれるの。好きだと言われてはいないけど、きっと私と同じ気持ちなんだと思う」胸のどこかに小さ

  • 夫の一番にはなれない   第2話 隣の席の別れ話

    放課後の保健室は、いつもより少しだけ長い夕焼けが残っていた。消毒液の匂い、しまい忘れたカップの緑茶、壁の時計。日誌を書き終えてペンを置くと、耳の奥で秒針がまだ歩いているみたいに静かになる。「おつかれ、奈那子先生。今日も残業女神?」国語の美千恵がドアのところで手を振っていた。「女神というより番人だよ。鍵、返してくるね」「そのまま帰り? 夕飯は?」「……たぶん、あそこ」「あそこって、『ルーチェ』?」うなずくと、美千恵は意味ありげに笑って「甘いもの食べすぎないでね」と小声で付け足した。甘いものじゃなくて、今日は温かいものがほしい。胸のざわつきが、まだ消えないから。駅へ向かう並木道。風は冷たくないのに、手の甲だけが少し冷える。〈次の休み、会えない?〉スマホの画面に浮かぶ“望”のメッセージを何度もなぞってしまう自分が、可笑しい。可笑しいけれど、笑えない。角を曲がると、見慣れた看板が灯っていた。café&grill LUCE(ルーチェ)。古いレンガの壁に、真鍮色のドアノブ。柔らかなオレンジの照明。光、という名前がよく似合う店だ。一人で夕飯を食べるとき、わたしは大抵ここに来る。背伸びしない味と、沈黙が許される音量のBGMがお気に入りだった。「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」若い店員さんの声に、わたしは迷いなく奥へ進む。一番奥の窓際の席。街路樹の枝先がガラスに薄く映って、季節が少し遅れてやって来る場所が心地よい。いつもここ。今日もここ。コートを椅子の背に掛け、メニューを閉じる。頼むものはだいたい決まっている。「煮込みハンバーグと、十五穀米。あと、ホットのアールグレイを」「かしこまりました」頬杖をつくと、指先にまだチョークの粉の気配が残っていた。保健室にチョークはないのに、職員室で担任の先生たちに頼まれて黒板を拭いたからだ。こういう日常のかけらが、わたしを“先生”に戻してくれる。ポケットのスマホが、ふる、と震える。高校時代からの友人でもあり、親友の涼子だ。〈今夜も一人外食?〉〈うん。ルーチェ。〉〈しぶい。写真送って〉〈まだ来てないよ。〉〈じゃメニュー撮って〉〈撮るほどのメニューじゃ……って言うと怒られるやつ〉絵文字の笑顔が並ぶ。その顔にふっと笑みがこぼれた。〈で、例の彼

  • 夫の一番にはなれない   第1話 不穏な予感

    女の勘なんて当てにならない――ずっとそう思っていた。でも、この胸のざわつきだけは、うまく笑い飛ばせない。放課後の保健室は、薄いミルク色の光で満ちていた。ベッドの白いシーツ、消毒液の匂い、壁掛け時計の秒針。いつもと変わらない景色だ。「保健室って、なんか落ち着くんですよね」そう言って、のど飴を一個だけ大切そうにポケットへしまったのは二年生の瑠衣ちゃんだ。「落ち着くってことは、元気ってことよ。今日は帰ったらお風呂にゆっくり入って、早めに寝ないとね。この前みたいに夜更かししちゃダメよ」いつもの調子で言うと、彼女は「はい、奈那子先生」と笑った。“先生”と呼ばれるたび、まだ少しくすぐったい。養護教諭になって六年目。けれど、毎日が初日みたいに、誰かの体温に触れるたびに胸のどこかがきゅっとなる。生徒がはけて、急に静かになった保健室。机に座って日誌をまとめていると、スマホが小さく震えた。〈次の休み、会えない?〉画面に浮かぶ名前は“望”。大学を卒業してすぐに付き合い始めたから、もう六年になる。「そろそろ、かな」小さく声に出した自分の声が、ちょっと上ずっていた。返信を打つ指がふるふると震える。〈もちろん。どこで?〉すると、すぐ既読がついて、少し間を置いて返事が落ちてきた。〈駅前のファミレスで。昼過ぎに会おう〉……ファミレス。思わず笑ってしまいそうになる。いや、笑っちゃだめだ。プロポーズって、もっとこう、夜景の見えるレストランとか、ワインとか、そういう――。でも、わたしたちはずっとこうだった。肩ひじ張らない、背伸びしない、等身大のお付き合い。“わたしたちらしい”って言葉に、何度も何度も救われてきた。ロッカーから荷物を取り出し、保健室の明かりを落として職員室へ鍵を返しに行く。すれ違いざまに国語の美千恵が「おつかれー、今日もモテモテ養護の女神?今日も遅くまで生徒残ってたでしょ」とひそひそ笑って、わたしは「女神は残業女神です」と肩をすくめた。美千恵のこういう軽口にどれだけ救われているか、たぶん本人はわかっていない。帰り道。駅までの並木道に、春を追いかけるみたいな風が吹いていた。ふいに、切れ端みたいな記憶が胸の内側でひらひらする。大学四年の春。小さな居酒屋で、緊張した顔で「これから、どうする?

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status